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ばるぼら / 手塚治虫

手塚は生涯に三回「ファウスト」を描いている。一度目は戦後すぐに(一九五〇年)、二度目は『百物語』(一九七一年)として、三度目の『ネオ・ファウスト』(一九八八年)は第二部が始まった途端に絶筆となった。手塚の表のライフワークが「火の鳥」だとはよく言われることだが、裏のライフワークは「ファウスト」なのだ。ゲーテの原作のモチーフである「悪魔メフィストと契約して若さを手に入れた代わりに、満足したと口に出したら魂を受け渡す」という部分に手塚は惹かれていたとみえる。原作は最後、地獄に堕ちる寸前で天使に助けられる。手塚も一作目はそれに従ったが、二作目は悪魔自身に救わせた。『ネオ・ファウスト』は一体どんな結末になっていただろうか。傑作の予感を感じさせるだけに手塚の死は早すぎたと思う。『ばるぼら』は作家・美倉がフーテン娘ばるぼらを駅で拾ったところから始まる。ばるぼらを追い出してもなぜかまた暮らしてしまう。彼女がいると筆のノリがいい。そうしてる間に、ばるぼら無しには作品を作れなくなる。ばるぼらの正体は悪魔で、美倉は生涯の代わりに芸術作品を手に入れることになった。人は死んでも芸術は残る。そう、これは手塚が生涯に渡って書き続けた「ファウスト」のモチーフを、オカルティズムを取り入れながら自作に昇華させた狂気の作品なのだ。なんのことはない、既に手塚は自らの「ファウスト」を完成させていたのである。一九七三年作品。

こじき姫ルンペネラ(タイガーブックス8巻収録) / 手塚治虫

常に時代の流行を取り入れる作家と、常にマイペースに自分の作品を描く作家の二種類にわけるとすれば、手塚は間違いなく前者だ。手塚治虫は常に時代を意識し、若者向け漫画を描くことを忘れなかった。だがその反面「手塚は流行モノに弱い」というジンクスがあるくらい、流行を意識すると作品が失敗する傾向がある。ロリコンが流行した時に描いた『プライム・ローズ』がいい例で、タイムトラベルが登場する第二部から物語が破綻していった。「こじき姫ルンペネラ」の掲載誌は『ヤングマガジン』。「また若者ウケ狙った失敗作かな」と最初は気楽に読み始めたが、そしてやはり物語はぶっ飛びまくった内容だったが、その壊れ具合が奇跡的にギャグとして成立する、まさに今評価すべき手塚のモンド傑作だった! 二千年前の古代から暴君アブクゼニに追われ現代に逃げてきたルンペネラ姫と彼女を守るランプの精(女)が、浪人生・陣内と共にアブクゼニを倒す、というのが大まかな流れ。でも正直話の進行はどうでもよくて、ランプの精が水道に化けて自分のおっぱいを陣内に吸わせたり、追っ手がランプの精の女性器の中で迷ったり、巨大化したり、随所に溢れるエロス感がたまらない。当時大流行していたフランスのバンドデシネ作家・メビウスのパロディは大友克洋世代への回答(嘘)。物語のラストはあまりにも唐突すぎて読者は置いてけぼり。この凄さをどう伝えたらいいのだろう? 一九八〇年作品。

ベン・ショットの英国博覧記 / ベン・ショット著・野中モモ訳

イギリス中の説明書から一ページずつ切りとってまとめるとこの本になる。そう断言したくなるくらい、ここには様々な分野の基礎データがぎっしりとつまっている。素数一覧表の次に地球のサイズが書いてあって、その下には「有名な臨終のことば」が続く。『タイムズ』とか全国紙の創刊年一覧があれば、ビッグマックの成分が詳しく記載され、結婚式にまつわる迷信がズラリと並んでいる。ああ、なんて脈絡がないんだろう! いちおう、有名人の台詞は英文も併記されているし、おそらく訳者がつけたであろう赤字の註も理解の手助けにはなる(原著にはないよね)。だけど本を読むことと知識が増えることをイコールに考える人には、この本はそんなに役に立たないと思う。だって一つ一つまじめに憶えたって、ここに出てきた知識を活かせる場面になんてそんな出くわすはずがないから。だいたい著者のベン・ショットがこの本をそうした豆知識本にするつもりがないのは、本書に章立てがなく、そもそも目次すらないことからも明らかだ(その代わり、気の利いた索引がある)。思いだした時にぺらぺらとめくり、目にとまった所から読み進める。追いかけても追いかけてもつかみ所がなく、それ故に何度読んでも「ほぉ?」とその一瞬は関心させられてしまう。この本が教えてくれるのは、そうした無為な時間の過ごし方である。だからねっころがって腕をのばした、その手の届く半径に置いておく必要があるけど。

Dragon, Tiger, Escargot / California Dolls

このCDにパッケージングされた音楽を言葉で表現するのは厄介だ。なぜなら過去の発言から歴史的文脈を辿り、バックグラウンドを知ることで表現された音楽そのものを理解したつもりになるロック評論がここでは意味をなさないし、かといってジャケットや歌詞から「雰囲気」とか「感覚」のような、曖昧な概念を読み取ることで共感したことにするアプローチとも無縁だからである。それは例えば一曲目の「アイム・ショックド」のカバーを聞けば判るだろう。これを何度くり返し聞いても、リスペクトとかオマージュとか何か特別な思い入れは発見できず、なんとなく気に入ったからこうした、というゆるい意思を垣間見るに留まり、中古レコード屋のクズレコードの値段をつりあげた、九〇年代中期のオルタナティブ視点ブームの一環『モンド・ミュージック』掲載のアイ・アバンティとそのグループのジャケットを思いだす程度のノスタルジーも出番がない。彼女達の存在はそうしたかつては機能した受け手側のリスニングの姿勢が既に無効化していると気づかせる一点でオレンジレンジと酷似しているが、しかし刺激がほしけりゃバカになれという開放感さえポップスをロック風に味付けするアレンジ手法の一つとなっている現状に対し、電子レンジから漏れる放射能を執拗に探しだして音にしたようなカリフォルニアドールズの即興の衝動が少しも模倣的でないのは、たぶん凄いことである。ジャケットは寺田克也。

サマースプリング / 吉田アミ

自殺した人間の机の引き出しから出てきた手記でも読んでいるような、もうどうしようもない切迫感が流れる一方で、その状況を冷静に俯瞰しているもう一人の自分がつけている観察日記のようでもある。八〇年代の終わりに地方都市に住む中学一年生の少女が体験した、ある季節を切り取ったテキスト。若者向け雑誌に載る遠くの面白そうな出来事の情報だけがいくつも空回りして、なぜ自分はここに閉じこもっているのだろうと自意識だけが肥大化していく。自分を物のように乱暴に扱いたいのに、傷ついていく感情だけはハッキリとしている。外側の自分と内側の自分が一致しない。そんな少女が当時きっと何人もいたのだろう。作者は体験した直後から一〇年近く、このテキストを誰に見せるでもなく書き続けていたのだという。もう何百回もアップデートを繰り返したであろうこの作品に書かれている出来事がすべて真実なのかは判らないが、真実と嘘の境界線上を読者に歩かせる点で紛れもないエンターテインメントだ。物語のラスト、少女は必要だったものを手に入れる。それは何の根拠も理由もない無責任な希望である。しかし自分が存在することに根拠や責任や理由が必要ないように、むしろあってはならないのと同様に、自分を取り巻く世界もまた無責任であり、それを知ることを成長と呼ぼう。これこそが、少女の外側と内側を一体化させるために必要なプロセスだったのだと思う。つまり発見の物語である。


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