注意:この文章は2003年〜2004年にかけて書かれ、「ロリコン入門」というコンテンツの補足記事として公開されました。ロリコンと同人誌の関係性を意識して解説しているため、所々それを前提とした書き方がされています。違和感を感じた人は読みすごしてください。
最初の同人誌ブームは1953年前後に『漫画少年』(学童社/1947年創刊・1955年休刊)を中心に起きた。同人誌といっても、当時はオフセット印刷もコピー機も満足に無い時代であるから、会員間で郵送して回し読みをする全て手書きの「肉筆回覧誌」が普通である。有名なものには、石ノ森章太郎が会長の東日本漫画研究会(会員には赤塚不二夫、高井研一郎、水野英子らが居た)による『墨汁一滴』、鈴木光明が会長の『ぶるーばーど』(永島慎二、石川球太など)がある(ちなみに藤子不二雄が作った漫画同人誌『少太陽』は1951年11月)。1956年から1958年には早稲田大学、慶応大学、明治大学に漫画研究会が発足し、学マンブームと呼ばれた。
手塚治虫を頂点とする丸っこい線で描かれた少年漫画に対抗する形で、さいとうたかをや白土三平に代表される「劇画」と呼ばれる作品の台頭が1950年代中盤に大阪で起きた。貸本漫画誌『影』(日の丸文庫/1957年4月創刊)や『街』(セントラル出版/1958年?創刊)に寄稿していた劇画工房の作家達(辰巳ヨシヒロ、松本正彦、佐藤まさあき、平田弘史、水島新司など)が人気を集め、1958年頃から再び同人誌ブームが起きる。1959年には東京にも劇画ブームが飛び火し、2月に劇画貸本『摩天楼』(兎月書房)、4月に『劇画界』(劇画工房)が創刊されるなど興隆をみせ、「劇画エース」「おらがプロ」といった劇画集団が誕生した(らしい。詳細不明)。この盛り上がりに手塚はノイローゼ寸前だったという。劇画は夢と空想に彩られた漫画の世界に、暴力やセックス、リアリズムを持ち込んだ。
この時期の劇画はロリータから程遠いので詳しくは触れないが、1960年頃からの貸本ブームの衰退と共に劇画作家も行き場を失い、その数年後に『週刊少年マガジン』などが劇画作家を起用しはじめるまで苦労したようだ。つげ義春でさえ一時期漫画をやめて障子張りの仕事をしていたというから相当である。代表的な劇画誌には、白土三平の貸本から始まった『ガロ』(1964年創刊/青林堂・長井勝一)、漫画批評誌『漫画主義』(1967年創刊/権藤晋・石子順造・山根貞男・梶井純)、『跋折羅』(1971年冬創刊/三宅秀典・三宅政吉・伊藤重夫・勝川克志)、『ガロ』の二軍的な『夜行』(1972年創刊/北冬書房・高野慎三)などがある。現在『漫画主義』の権藤晋と梶井純、『跋折羅』の三宅兄弟らが『貸本マンガ史研究』(シナプス発行/1999年創刊)という貸本時代を振り返る貴重な同人誌を発行しているので興味のある方は参照するといいだろう。
1964年頃、現在も続くマンガサークル「作画グループ」(みなもと太郎、聖悠紀、沢田ユキオ、あずみ涼など)や「奇人クラブ」(岡田史子、青島広志など)の『けむり』、「新児童少女まんが界」(高階良子、大岡まち子、北条なみえなど)の『若草』などが生まれ、彼・彼女らのほとんどが漫画雑誌『COM』の投稿ページに集まっていた。『COM』は手塚治虫が『ガロ』に対抗して1966年に創刊した雑誌で(というのが建前としてあるのだが、実際は『鉄腕アトムクラブ』が赤字続きで、それの発展的解消ということのようだ)、1964年8月に創刊したファンクラブ誌『鉄腕アトムクラブ』が母体となっている(最終号は1966年11月号)。『COM』には1968年から『ぐら・こん』(ぐらんどこんぱにおん/GRAND COMPANION)という投稿作品を集めた別冊付録がつき、この「ぐら・こん」が全国に居る若き漫画家らの活動の中心となり、全国的な同人誌ネットワークが組織化されていった。先ほど挙げたサークルの面々もここに登場している。売上げが落ち込んできた『COM』はアニメで苦心していた虫プロの倒産と共に、1971年に廃刊した。(余談すぎるが、大友克洋も「ぐら・こん」に応募していたようだ。[→OTOMO KATSUHIRO on Magazine COM '71年2月号])
この時期の有名な同人誌・サークルは、1972年に「アップルコア」・「鏡」・「アニドウ」のアニメ批評誌『FILM 1/24』、1973年に「楽書館」(高野文子、しりあがり寿など)・「モトのトモ」、1974年に『まんがジャーナル』・「チャンネルゼロ工房」(いしいひさいちなど)の『oh!バイトくん』・『いちゃもん』・アニメ専門誌『ファントーシュ』、1975年に「迷宮'75」の『漫画新批評体系』・萩尾望都を特別講師にむかえた「Queen」(くらもちふさこ、槙村さとるなど)・萩尾望都のファンクラブ誌「Love望都」など。この75年前後は“24年組”と呼ばれる少女漫画家が大流行で、多くの女性が漫画家を目指し、東京女子大の「やっはるー」(森川久美など)、日本女子大の「びびっと」(高橋留美子など)、御茶ノ水女子大の「ばるぼら」(柴門ふみ、湯田伸子など)といった女子大の漫画研究会も続々と発足している。
1972年には石ノ森章太郎や永井豪、手塚治虫らのファンクラブが中心となった「漫画大会」の第1回が開催され、翌1973年には「マンガフェスティバル」が開催されるなど(同人誌も会場の隅で売っていた)、せっかく盛り上がってきた漫画同人誌の世界も、『COM』の廃刊で全国的な発表の場が無くなり、つながりが希薄になってしまう。また「マンガフェスティバル」への参加という、資本と同人誌がつながりを持つ状況に危機感を持った、東京渋谷の喫茶店「ばら園」で集会を開いていた漫画批評集団「迷宮」が、1975年12月に漫画同人誌の即売会を開催することになった。これが今の「コミック・マーケット」である[→そして伝説へ…シリーズ コミケ米澤代表]。記念すべき第1回の参加サークル数は32で、先の「チャンネルゼロ」・「迷宮」・「ファントーシュ」・「Queen」・「Love望都」・「びびっと」などをはじめ、「CPS」・「METY」・「MOB出版」・「まんがのむし」・「ふしぎな仲間たち」・「アズ」・「EROTICA同盟」・「望月三起也FC」、その他先の女子大などの漫研・SF研が参加した。なおあまり語られないけども、立ち上げ時の代表は米澤嘉博ではなく別人(あまりの多忙さに逃亡したとか)。
第1回コミック・マーケットに訪れた人の数は推定700人と伝えられている。その中で400部を売った人気同人誌が主催者側でもある「迷宮'75」の『漫画新批評体系』で、そこに収録された「ポルの一族」はパロディ漫画の先駆けとして、その後のコミケットの方向性の一つを表したと考えられる。先ほども書いたが、75年前後は少女漫画が大流行していた時期であり、「ポルの一族」は少女漫画家・萩尾望都の傑作『ポーの一族』(1972年3月開始)のパロディだ。同じく萩尾望都を扱った「Queen」や「Love望都」も人気が高く、初期のコミケットは当時の少女漫画ブームを色濃く反映することになり、また同人誌独自の「パロディ」というジャンル形成の動態を示していた。[→そして伝説へ…シリーズ1 共信印刷]
1976年、第2回〜第5回頃のコミケットで人気を集めた同人サークル・作品は、さべあのまの『NOMA PROLOGUE』や「ふしぎな仲間たち」、『ファントーシュ』・『東映長編動画集』・『FILM 1/24』・『アニメーションふたりの会』、「薔薇十字団」・「レインボー戦隊ロビンFC」・「ティームコスモ」などで、少女漫画・アニメ・SFものが入り交じった様子を見せはじめていた。
1977年、ポスト『宝島』を狙っていたサブカルチャー雑誌『OUT』(みのり書房/創刊1977年5月号)が2号で「宇宙戦艦ヤマト」を特集し大反響を呼ぶ(今ふり返れば、このヤマト特集の号にヒロイン・森ユキのパンチラシーンがパラパラ漫画で収録されている時点で、何かが間違っていたように思えてならない)。ヤマトは1974年11月から1975年5月にかけて放映されたSFアニメで、裏番組の「アルプスの少女ハイジ」に視聴率を持っていかれたものの、一部の熱心なアニメファン達に支持され密やかな人気を保っていた。それが『OUT』の特集で表面化し、一躍アニメブームが沸き起こり、当然ながらその勢いは同人界にも飛び火。コミケットは第6回頃からアニメ系サークルが増加した。
1978年はヤマトの劇場版が公開されることもあり、アニメのパロディ、いわゆる「アニパロ」も増加したが、その中にアニメに出てくる男性キャラクター同士を絡ませたホモネタがちらほら現れ始めた。これは“24年組”少女漫画家・竹宮恵子の『風と木の詩』(1976年2月開始)に描かれた少年愛が大きな影響を及ぼしたと考えられる。 そうした、のちに“やおい”と呼ばれる男性同士の性愛を取り上げた作品群は、少年愛の耽美派・お気に入りのミュージシャンを絡ませるロック派・アニメのキャラクターを使ったアニパロ派などと分けることも可能だ。代表的なサークルには「漫研POT」・「バップグラ」[→谷地恵美子&富永裕美]・「RCII」・「蘭丸BOYBOYBOY」・「ココナッツクッキー」・「I.C.C. MERCURY」などがある。
この頃のコミケット参加者は8割が女性であったといい、「コミケット=ホモ同人誌」という側面が強くなりつつあった。この勢いはやがて“いま、危険な愛にめざめて”と謳った男性同士の愛を中心にした漫画誌『Comic Jun』(サン出版/創刊1978年10月号)を生むこととなり(3号から『June』と改名。創刊号には前述の竹宮恵子も書き下ろし作品を提供)、コミケットが外部に影響を与えた最初の例となる。『June』とともに有名な“少女のための耽美派マガジン”『ALLAN』(みのり書房)は、『June』が休刊中の1980年10月に『OUT』の増刊号としてスタートしており、その後『月光』(東京デカド社/1984年)・『月ノ光』(南原企画/1988年21号から改名)・『牧歌メロン(新・月ノ光)』(パロル舎/1989年4月から)・『月光』(パロル舎/1989年9月)・『月光文化』(冬樹社/1991年)などと、題名を変えながら黙々と出版されていた。『ラッキーホラーショー』(南原企画/1991年)はそれらの雑誌の投稿コーナーが独立したもの。
「宇宙戦艦ヤマト」の人気がかげりを見せ始めると、取って代わったように「機動戦士ガンダム」(放映1979年4月7日〜1980年1月26日)が人気を集め、「ガンパロ」という呼称が生まれるほど盛り上がった。このようにアニメ系のサークルや、ホモパロ同人誌、創作少女漫画といった同人誌が主流だったのが1979年頃までのコミケットである。