掲載誌『NETWORKER』誌(アスキー)1988年7月号,118-119ページ 連載「ネットワーク考古学」 「オタク」という不思議なことば/安田幸弘  一年ほど前から「オタク」という言葉を見かけるようになった。実に不思議な言葉である。最近では、もうすっかり馴染んでしまって、その意味するところもある程度は理解できる。しかし、いまだに「オタク」の正確な定義を知らない。また、誰に聞いてもよく分からないのが不思議なところだ。  「オタク」という言葉は、ある種の人々を指す。また「オタクな」という形で形容詞的に用いられることもある。たいていの場合、これは、相当否定的な意味を含んでいる。ちょっと前に、「明るい/暗い」という性格の二分法がはやったことがあって、「暗い」というのはかなり否定的な意味合いを持っていたが、それでも「そうだよ、オレは暗いんだ。文句あるか」と開き直る人も少なくなかった。ところが「オタク」と言われた人は、間違いなく憤慨する。「オレはオタクだ。文句あるか」などと言おうものなら「やーい、オタクだあ!」と石を投げられるのは覚悟しなければならない。ほとんどヘビやケムシ並みなのである。  さて、「オタク」と呼ばれる人々は、ほぼ間違いなくパソコンの愛好者、それも、かなりドップリ浸かっている人々。「パソコンマニア」とか「コンピュータ新人類」、あるいは「ハッカー」などと分類される範疇にかなり近い概念だろう。  しかし「オタク」はパソコンマニアの中でも特異な存在だ。非パソコンマニアから見れば、同じパソコンマニアに見えるとしても、パソコンマニアにも「オタク」と正統派のマニア、つまり「ハッカー」が存在する。もちろん、「オタク」は「ハッカー」とは本来全く別物である。世間一般ではハッカー=コンピュータ犯罪者といった取り扱い方をされることがあるが、真正ハッカーになると、これは尊敬の対象になりこそすれ、まずケムシ扱いされないのが普通だ。  この差は「オタク」が極めて非本質的な部分にこだわる、というあたりにあるようだ。早い話が「わかっていない」。ところが、なまじパソコンが好きなものだから、分かったようなことを言う。それはいいとしても、基本的に分かってないものだから、人に間違った知識を押しつけようとする。このあたりが正統派のマニアから嫌われる理由なのだろう。  また「オタク」はソフトのコピーが好きだ。使いもしない高価なソフトを何十本もコピーで持っている。そしてさらにタチの悪いことに、いかにソフトをたくさん持っているかを自慢し、他人にコピーさせて歩くのを無上の喜びとする。  そして「オタク」はソフトを使うことができても、そのソフトを使って処理させるべき仕事をもたない。パソコンを使うとしたらせいぜいゲームかパソコン通信。コンパイラを持っていても、大したプログラムを書けるわけではないので、入門書に毛が生えた程度のプログラムをちょこちょこと作ってそれでおしまい。つまり「オタク」は無目的なのである。  この他の特徴として、性格的には、自己中心的でやや外向的、精神的に未熟な部分を残す。興味はパソコン以外にはアニメやコミックス。知らない人と話をするのは疲れるので嫌い。1人パソコンに向かっているのが好きといったところだろうか。  ここで私のイメージする典型的な「オタク」の特徴を具体的にリストアップしてみよう。ただリストアップするだけというのも能がないので、題して「オタク度チェック」。これが「オタク」のすべてだというつもりはないが、だいたいこんなところだろう。 パソコンに触っているのが大好き コンピュータ関係の雑誌に毎月5冊は目を通す コピーソフトを10本以上持っている いつもフロッピーを持って歩いている コンピュータの話題であれば、いつまでも話が続く アニメが好き 音楽はニューミュージックを聴く程度 本当はMacが欲しいのだがPC-9801を使っている プログラムは動けばいいってもんじゃないと思う ソフトを自分流にカスタマイズするのが好き 何でもYESかNOかはっきりしないと気持ちが悪い 文学、社会、芸術には興味がない 他人は他人、自分は自分だと思う 体系的には小太りである 少数の気にいった仲間とのつきあいが好き 数字のゼロには斜線を入れる 女性とのつきあいは苦手 隠しコマンドや裏技を発見するのが無情の喜びである そして「オタク」雑感  さて、上のチェック、私自身は9つの項目にチェックがついた。コンピュータをいじることが好きな人なら、それぐらいになるかもしれない。反対に、十分「オタク」の素質があっても、コンピュータに興味がなければ上のチェックでは対して「オタク度」は高くならないだろう。このあたりは、あまり気にしないでもらいたい。  それはそれとして、「オタク」な傾向というものは、誰でもが少しずつ持ち合わせているものではないだろうか。コンピュータとそれをとりまく環境や生活が、人間の持つ「オタク性」を引きずり出すのだろう。  「コンピュータなんて人間が作った物じゃないか」という人もいるが、それなら数字なども同様だ。人間の関与しないところに数字があるだろうか? コンピュータは、これまで紙の上だけのロジックを、五感で感じることができるようにした機械なのである。コンピュータ、つまりロジックの世界には、ある意味で人知を超えた部分があるといっていい。  いわば、コンピュータはひとつの完成した世界だ。その世界の秘密を知り、支配したいという欲望、これらは自然なものだと思う。そしてこれらが「オタク」の原動力である。  しかし健全な好奇心や遊び心が、本来手段にすぎなかったものを自己目的化し、袋小路に入り込んだときに「オタク」になる。決してコンピュータに限らない。たとえば、超高級カメラと無数の交換レンズを持ち、えらそうな写真論をぶつ人が、実際に写真を撮る段になると情けない写真ばかり、などということは珍しくない。また、ある種の文芸同人なども、かなり「オタク」な人物の集団かもしれない。  ただ、カメラマニアや文学青年が「オタク」的であっても、「オタク」と呼ばれないのは、その興味のターゲットがコンピュータでないからだ。カメラや原稿用紙はコンピュータと違って1/0のアクティブな反応を返してこない。写真も小説も、独自の世界を持っているとはいうものの、コンピュータのように実社会から完全に隔離された世界ではない。  コンピュータは現代が生み出した最も強力な道具だろう。見かけの頑固さとは裏腹に、コンピュータはあらゆるひとびとの欲求に応える限りない柔軟性を兼ね備えている。  心理学で使われるロールシャッハ・テストは、それ自体は単なるインクの染みでしかないにも関わらず、それを見る人はそこにさまざまな「かたち」を見いだす。ここで「見る」という行為が、自分自身の心の動きを反映しているのである。  コンピュータは、ちょうどロールシャッハ・テストのようにそれだけでは何もしない機械だ。しかし、個人が自由に操作することができるコンピュータは、利用する人がそこに見いだしたいと思うものを見せてくれる機械である。ここではコンピュータを使うという行為が、使う人の心の動きを反映する。そしてコンピュータは利用者のどんな欲求にも反応して、利用者の行為に報酬を与える。「素質」のある利用者はコンピュータ独自の無限の深みに誘い込まれ、どんどん「オタク度」が上昇し、人格は「オタク」化することになる。  コンピュータは道具である。コンピュータを使いこなす努力に問題はない。ただ、無目的にコンピュータを使いこなそうとすると、これは「オタク」への第一歩。さまざまな知識を蓄え、あらゆる局面で対応できるようになり、コンピュータを支配したかの錯覚は、自分の小さなコンピュータの論理の中でだけ成立する。「オタク」は自分だけの居心地のいい、この状態を好む。不可解な社会も人間も拒否し、無限に小さな世界の帝王となり、日々その世界を無限に矮小化する努力に余念がない。もちろん、彼の意識の中で世界は大きく広がるのだが。  このような状態に陥った人をぼくは「オタク」と呼ぼう。  人格とは、他人との接触を通じて形成されていくものだ。しかし「オタク」の人格は、小さなコンピュータの世界の中で日々矮小化し、矮小化した人格はさらに世界を小さくし、悪いことにパソコン通信ネットワークなどを通じてオタク同士が幻の世界を確認しあい……という無限ループに埋没する。  だが、この無限ループを回避するのは実に簡単なことだ。自分の思い通りにならない社会との関係を持つことで、この絶望的な無限ループは断ち切られる。社会人に「オタク」が少ないのはこのあたりの理由だろう。しかし、塾や受験勉強によって仲間から隔絶された世界の中で「オタク」化する若年層には、いささか不気味なものを感じる。  ある意味で「オタク」は現代のライフスタイルが生み出したものということもできるかもしれない。管理や束縛を嫌って脱サラがはやる時代。自由の名のもとに「オタク」にだけはなりたくないものだとう思う。