※この文章は「渋谷系の時代(仮題)」として第三回までウェブ上で連載されたあと、都合により中断したものです。
「渋谷系」とは、名前の通り渋谷を発祥に90年代前半に盛り上がったミュージシャン達の総称である。代表的なミュージシャンとして、フリッパーズ・ギター(小山田圭吾と小沢健二)、ピチカート・ファイヴを二大巨頭に、初期オリジナル・ラヴ、ラブ・タンバリンズ、ヴィーナス・ペーター、スチャダラパー等が挙げられる。レーベルではトラットリアとクルーエルが代表的。また、彼らのCDジャケット・広告等のアートワークがどれも「ソフィスティケート(洗練された、大人的な、趣味のよい)」されたものだったことから、単に「オシャレ」の代名詞として使われることもある。
では、あらためて渋谷系とは何か(何だったのか)。
「渋谷系」の語源には諸説あるが、93年春、女性向けエンターテインメント情報誌『apo』(株式会社SSコミュニケーションズ/1991.11〜1994.7/隔週刊)で行われたHMV渋谷店の取材記事から広まった言葉である、という説が最も有力である。当該記事は当時HMVの邦楽担当であった太田浩氏へのインタビューが行われており、取材担当は『bar-f-out!』編集発行人の山崎二郎氏であった。
HMVが渋谷に進出したのは1990年11月16日だが、初期は輸入盤中心で邦楽の売上げは全体の10%ほどであり、売り場を拡大し邦楽に力を入れ始めたのは1993年3月からである。この頃の渋谷にはWAVEやタワーレコードをはじめシスコ、ゼストなど特徴的なショップが並んでおり、HMV渋谷店もその路線を追随した。
太田浩氏が取った方針は「洋楽ファンにも聴ける・20代後半になっても聴ける邦楽ポップスを品揃えに反映させる」ことだった。そこで太田氏が選んだ邦楽がフリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイヴ、カヒミ・カリィ、ラブ・タンバリンズなどのアーティスト達の作品だったということだ。重要なのはそうしたミュージシャンの隣りに関連CDを併置したことである。フリッパーズの隣りにエル・レーベルの『London Pavilion』を置く、コーネリアスならトラットリアを横に並べる、といった風に。
このマーチャンダイジングはWAVEクアトロが先達であり、「WAVEを参考にした」とのちに太田氏自身も語ったが、ではなぜ現在HMVを中心に語られるのかと言えば、それは(当時の)HMVリコメンド・コーナーを彩る独特のディスプレイにあったといえる。前出のアーティスト達のCDジャケットを30面以上並べたり、Tシャツ、プロモ盤、ポスターなどをグッズ感覚で壁一面に散りばめた、数で圧倒するグラフィカルな見せ方が、渋谷のレコード店を徘徊していた人々にHMVを一際強く印象づけたに違いない。
そんなHMV渋谷店の“顔”であった太田氏は、96年6月末に渋谷店を離れ本社へ去っていった。渋谷系が太田氏のディレクションによって始まったのならば、この時渋谷系は終わったのである。
さて上記のように渋谷系と聞くと私達は何の疑いもなく渋谷を連想する。だが渋谷はあくまで渋谷系のマーケットの場であり、ムーブメント発祥の地は下北沢のクラブ「ZOO」(93年頃に「SLITS」と名称変更、95年末閉店)だ。クルーエル(91年11月、ZOO周辺のDJやライターが出資して設立したインディーレーベル。代表は瀧見憲司。代表アーティストはラブ・タンバリンズ、カヒミ・カリィなど。)やトランペット・トランペット・レコーズ(現エスカレーター・レコーズ)などの渋谷系を代表するレーベルがここで生まれ、LB NATION(Little Bird NATION。スチャダラパーが行っていたクラブイベント「LBまつり」関連アーティスト達の総称。かせきさいだぁ、TOKYO No.1 SOUL SET、脱線トリオ、タケイ・グッドマンなど。「Little Bird」とはかつてあった「ことりレコード」へのオマージュ。)がここを拠点に活動し、定期的に開かれた瀧見氏主催のDJイベント「THE LOVE PARADE」にフリッパーズの二人がよく遊びに来ていた……といった数々のエピソードが象徴するように、「ZOO(SLITS)」を発祥とする渋谷系的なモノゴトは枚挙にいとまがない。
本題から少しズレるが「ZOO(SLITS)」が一般的に広まったのはラブ・タンバリンズのヒットと前後していたと思う。初期ラブ・タンバリンズはギター&ボーカルというスタイルで出演し、92年2月頃から対バン相手が参加しはじめ徐々にバンド編成に変わっていく。その後ZOOで瀧見氏と出会い、クルーエルから93年4月に出したデビューシングル『Cherish Our Love』が、インディーレーベルからのリリースでありながら異例の10万枚を突破したことで、一般誌に取り上げられていたのをよく目にした。「ZOO」の山下店長は「ZOOで活動していて、いろんな出会いがあって育っていったのがラブ・タンバリンズで、クラブのあるべき姿を示してる」と評した。
しかし彼・彼女らが“シモキタ系”ではなく“シブヤ系”になったのは、やはり渋谷のレコード店で局地的に売上げが伸びたからで、それを考えると「渋谷で売れたのが渋谷系」という逆説的な解説もありかもしれない。
もともと音楽的な特徴をとらえたジャンルではなく、輸入盤を扱うレコード店(「外資系大手ショップ」と言うとZESTが入らないので正しくない)のフロアから生まれた実体のない言葉だ。しかし「渋谷系」がメディアで流通しはじめると、人々はそれをジャンルとして扱い、そこに具体的な特徴を求めた。
そこで渋谷系と呼ばれたアーティストの特徴としてよく挙げられるのが、彼らの多くがヘビーリスナーだったことだ。ヘビーリスナーとは例えばレコードの所有枚数が四〜五桁という、音楽に生活の重点が置かれているタイプの人々である。渋谷系の受け手もまたヘビーリスナーであることが多く、ファンはミュージシャンが薦めたレコードに注目し→渋谷のレコード店でその盤を探すというサイクルが出来つつあった。例えば91年に『宝島』誌でフリッパーズ・ギターの連載ページに掲載された、彼らがラジオ番組で流したソングリストは、ガイドブックとして非常に有効に機能していたし、『POP iND's』誌最終号のピチカートファイヴ特集号で、小西・高波の両氏が選んだレコード200選は、渋谷系リスナーにとってはある意味古典である。ファンは渋谷系を媒体に新しい音楽を求めた(蛇足だが彼らの薦める音楽の多くは洋楽で、だからこそ輸入盤を扱うショップが舞台になったのではないだろうか)。
このレコード紹介路線で有名になったミニコミが橋本徹氏の『suburbia suite』誌だろう。90年夏にフリーペーパーから始まった同誌はソフトロック、ジャズ、ボサノバ、映画音楽など、従来のロック史とは重ならない、むしろこれまで低く見られてきた音楽に焦点をあてたレコードガイドブックだった。その選択眼はフリッパーズやピチカートと共通するセンスであり(実際に何度か彼らも寄稿していた)、90年代に花開く「レコード大量消費文化」を支えていた。
これらのカタログが新しかったのは、ジャケットに添えられた文章にほとんど情報が書かれていないことだ。例えば「オープン・エアのカフェで、カプチーノのカップを持ちながら聴きたい。ポールとミックのスマートなセンスが輝きまくってる2nd。スタイルとともにあるメッセージ。ネオ・アコでカテゴライズできない名作。自称オシャレさん必携」(The Style Council『Our Favourite Shop』評)といったように、メンバーが誰とか、何曲収録されているのか、といった当たり前の情報さえ掲載されず、むしろ積極的にそのレコードの「気分」や「場の雰囲気」を、妙にカタカナの多いエッセイ風の文章にまとめたものばかりだった。
従来のロック・ジャーナリズムとの違いがここにある。つまり「このアルバムがいかに歴史的に重要な名盤か」といった前提知識を必要としない、させない、ただ「このアルバムのこの曲がいかに良いか」という、クラブ的発想が斬新だったのだ。それまでの価値観(歴史・権威主義)を覆す新しい視点の提供。ちょうどレコードからCDへとメディアの移行が完了し、カタログ数を増やすために各レコード社が旧譜の再発を次々に手がけていたことも手助けした。旧譜を新譜のように聞き、良いか悪いかを自分の耳で判断できる時代が来たのだ(補足しておくとレコードの時代はたとえ伝説の名盤でも廃盤であることが多く、本を読んで音を想像し中古屋を巡るか再発フェアを待つしかなかった。だからロック雑誌は今よりずっと権威的だったのである)。
もちろんこうした姿勢はのちに年季の入った音楽ファンから批判されることが少なくなかった。
しかし渋谷系のファンは、小山田圭吾のいう「ポップスのレアグルーヴ」というキャッチフレーズや、小西康陽の「いまこうした古いレコードにときめき熱狂するのを見て、懐古趣味だとか、あるいは当時いかに評価され難い文脈に立つ音楽だったか、などとしたり顔で語るのは的外れなことだ。ここに在るレコードは1990年代の今日、トーキョーで、そして世界の都市で聴かれることをあらかじめ確信していた、いわば“未来の音楽”なのだから」という宣言に象徴される、ロック/ポップスが“(情報や歴史を必要としない)クラブの視点”を手に入れた90年代の新しいポップミュージックの登場に胸をときめかせた。
だから渋谷系に対して「オシャレな雰囲気を楽しんでいるだけ」という批判は、ある意味正解である。音楽を聴いて感情を表現するでも、歴史に参加するわけでもなく、ただ音楽(やジャケット)が作り出す空間に参加するのが渋谷系の価値観でありライフスタイルなのだから。ただし勘違いしないでほしいのは、90年代初頭はそうした視点こそパンクであり非常に「ロック」的だったことだ。
では改めて渋谷系発祥の地とされる渋谷という街のレコード店について考えてみたい。まず始めに、HMV渋谷店を除いて、渋谷でいま最も有名なレコード店といえる「タワーレコード」渋谷店を見てみよう。なぜならタワーレコードの90年代における変化は、渋谷系というムーブメントと少なからず連動しているからだ。
81年4月に宇田川町に東京初の輸入盤レコードショップとして開店した頃のタワレコは洋楽、しかも売れ線の洋楽中心で、大型であること以外に大した独自色はなかった。そんなタワレコがワンフロアがまるごと邦楽売り場にして転換を図ったのは1995年3月10日に現在の場所に移転・再オープンしてからだ。同店発行のフリーペーパー『bounce』の表紙を、94年7月号(1994年6月25日発行)で初めて邦楽アーティスト(オリジナル・ラヴ)が飾ったことをその前兆としてふり返ることが出来るが、今のように邦楽に力を入れ毎号が洋・邦二種類の表紙になったのは95年10月号からである。
95年といえば既に渋谷系全盛であり、かつ小室哲哉の一連の仕事が毎週チャートを賑わせ、Mr.ChildrenやスピッツといったJ-POPアーティスト達が大ヒットを飛ばしていた時期である。同年9月に「WAVE」渋谷店がLOFT館6Fでリオープンし、ますます渋谷は音楽マーケットの重要地帯になっていた。こうした時期にタワレコが選んだ路線が渋谷系だったのである。というのは、『bounce』の編集部に前出『suburbia suite』誌編集の橋本徹氏を迎えたのだ。氏は96年6月号から99年4月号まで在籍したが、その時の誌面の神懸かり的なクオリティは、渋谷系リスナーに限らず多くの音楽ファンから好意的に受け入れられた。
『bounce』の誌面はお気づきの通り、たとえインタビューのページでも必ず何らかのCDのジャケットが掲載されている。ディスコグラフィ然り、関連アーティスト然り、お薦め・広告しかり。一冊に掲載されているCDの数は1000を下らない。新譜情報以外にも、あるアーティストを紹介し影響を与えたり友好関係にあるレコードを解説する「ピープルツリー」(海外『ZIGZAG』誌を彷彿させる)や、特定のジャンルを選びその基本となる十数枚を紹介する「ディスコグラフィック」などの旧譜紹介記事は高く評価されていた。そこにさらに「渋谷系」の選択眼が加わったのである。歴史やジャンルを踏まえながら、現在有効な音楽を選び出す。「間口は広く、奥は深く」。90年代という時代の空気をうまく切り取った音楽雑誌の到達点であり、しかもそれが無料なのだ! 対抗誌といえば『WHAT's IN!? ES』(この雑誌も新譜情報を扱いながら旧譜を現在形で紹介する素晴らしい雑誌だった。ピチカートファイヴのラジオ番組の連載もあった)しか思いつかない。現在のタワレコがマニアにも愛されるレコード店である理由に、少なからず『bounce』によるイメージアップがあったことは書き記しておこう。こうしてタワレコはHMV渋谷店から太田浩氏が去って以降の渋谷系を支えたレコード店となったのである。
ここまで大型店を中心に話を進めてきたが、渋谷HMVやタワレコよりも重要なレコード店として、輸入盤レコード店「ZEST」が挙げられる。「ZEST」は1990年頃に渋谷宇田川町に出来た輸入盤レコード店で(京都にもある)、取り扱っていたジャンルは主にネオアコースティックやギターポップ。ここの店は店員も客も下北沢「ZOO」の常連ばかりで、それは例えばトランペット・トランペットレコーズを主催する仲真史氏が店員だったり、のちに『Finger Poppin'』を編集する梶本聡氏や、ミュージシャンのカジヒデキ氏がバイトをしていたという事からも判ると思う。
そして「ZEST」といえば仲真史氏が編集していた『MARY PALM』(90〜92年)が、初期渋谷系を語る上で『英国音楽』(後述)と並んで欠かせないファンジンである。取り上げるアーティストはブリッジ、ヴィーナス・ペーター、ギャングウェイ、フェイバリット・マリン、カヒミ・カリィ、プー・スティックスなど。特に3号掲載の小山田圭吾と瀧見憲司による放談「ラヴパレードでぶっとばせ!」はフリッパーズ解散後の状況について本人達がセキララに語った貴重なものだ。「ZEST」はマーケットの地にありながらムーブメントの場と同じ空気を早い時期から共有していた、数少ないレコード屋なのである。
ところで『英国音楽』というのは、80年代中頃から89年(フリッパーズ・ギターのデビューの年)まで発行されていた音楽ファンジンのことで、編集長は小出亜佐子さん。93年2月に『米国音楽』と名を変えて復活し、編集長交代後の現在も一年に一冊のペースで続いている。
『英国音楽』は11号でロリポップ・ソニック(フリッパーズ・ギターの前身)を大きく取り上げたことでネオアコファンジンの印象が強いが、元々は小出さんの大学(青山学院)にあった英国音楽愛好会というサークルの会報誌に近いもので、それをサークル解散と共に私物化したのが始まりである。10号までは小出さんの趣味であったポール・ウェラーを頂点にしたイギリスのインディーポップに加え、当時の流行だったブルーハーツやロンドンタイムスといったビートロックバンドと、ファントムギフトやヒッピー・ヒッピー・シェイクスなどのネオGS(後述)が中心で、ペニー・アーケードのインタビューが9か10号にわずかに載っただけだった。
しかし11号(88年)で日本のネオアコシーンの初期代表アーティスト(ロリポップ・ソニック、ペニー・アーケード、バチェラーズ)に出会ったことが転機になったのは間違いなく、これ以降、当時の日本で最もアンダーグラウンドだった音楽=ネオアコースティック中心のファンジンとなり、90年代にポコポコと雨後の筍のように創刊される渋谷系雑誌の先駆けとなった。
(以下次号)